2022/03/11

11年前の今日

その時、私は車で45分の妻の実家の倉庫を片付けていました。
その頃、しばらく使われていないその倉庫(もとはキノコ栽培工場)を片付けて私たちのために使えるスペースを作ろうと考えていました。
それで2月から何度か倉庫へ行っては、古いものを処分したり、壁を取っ払ったり、電気配線を一旦撤去したり、と作業をしていました。

その日は一人で倉庫へ行き、作業をしていましたが、昼前に軽トラをインロックしてしまい、妻に電話して車でキーを持ってきてもらい、妻は少しいっしょにいて、先に帰って行きました。
私は一人古びた倉庫内で梯子に登り、電気配線を剥がしていました。
そこへガタガタと揺れ始め、私はすぐに梯子を下りました。
揺れは一向に収まらず、私は不安を感じて外に出ました。
すると本震が始まり、さっきの揺れは前震だったと気づきました。
軽トラがおもちゃのように左右に跳ねるように揺れ、私は地震の規模の大きさを感じ、揺れている最中に携帯電話を出して妻の携帯にかけました。
しかし、すでに電話はつながらず、その時は発信制限がかかったのではなく、停電が起こったのだと思いました。
揺れは数分続いたと思います。
すぐに妻の両親の家に歩いて行き、無事を確かめましたが、キッチンのトースターが落ちたことと、棟瓦が一部崩れて玄関先に落ちていたこと以外は大丈夫でした。
妻の実家の向かいは小学校で、その時何かの工事に来ていた職人さんたちがトラックのラジオに耳を傾けて深刻そうな顔をしていたので、近寄って聞いてみると「大津波警報が出たらしい。予想は20mだって。」と教えてくれました。
大津波警報?
津波警報の上に、「大」が付くって?
これはやばい、妻は家に帰りついているだろうか?妻がここを出てから30分くらいだから、地震発生時はまだ家にたどり着いていないはず。
私は妻の両親と相談し、明るいうちに、そして津波到達時刻前に帰った方がいいだろう、と話し合い、すぐに家に向かって軽トラを走らせました。
道路は渋滞していませんでしたが、信号が点いていなくて、大停電が起きていることがわかりました。
注意しながら交差点をいくつも超え、無事家のある住宅街まで来ると、なんと信号は点いていました。
家に帰ると停電していないことがわかり、妻も無事でした。
それからは、家にある食べ物と水の確認をして、あとはテレビを付けて情報を得ようとしましたが、流れてくるのは現地の痛ましい津波の映像でした。
私たちは心の中でそして思わず声に出して、ヘリコプターの空撮映像に小さく映る車や人影に向かって「はやく逃げてー!!!」と涙を流しました。

それからのことはあまりよく覚えていません。
その日の数日前、母の3回忌を終えてから千葉にいっしょに来てくれた父が岐阜に帰ったばかりで、地震に見舞われなかったことは幸いでしたが、その後連絡が取れて2回ほど食料などを送ってくれた父が1か月後に急逝したため、私は大きな喪失感と不安感に包まれてしまったのです。

私の記憶にある2011年は、大きな地震と父を亡くしたことと、その後の頻発した余震と、生活が一変したストレスの年でした。
そしてその後の10年間は、私にとっては、(不摂生とストレスで)大病をしたり、実家を処分したり(相続財産処分は大変なこと)、大型の台風(と大停電)に見舞われたり、他にも色々とあり、大きなストレス期間でした。

ですが、もうそれも終わりにして、以前に思い描いたこと、今思い描いていることを実行する、これからの10年にしたいと思います。
よく知らない誰かに気兼ねなどせず、生がある限り、悔いのないように。

そして、来る兄弟地震に備えを怠らないようにしたいです。
2011年の地震はプレート境界の西側で起きましたが、その数年~数十年後には反対側(東側)で起きる同規模の兄弟地震があると言われています。
どんな災害にもある程度対処できるスキル(と道具)を少しづつでも増やしておきたいものです。
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